先日の日曜日、地元米津町の安泉寺にて「米津六義人供養祭」という自治会行事
に参加してきました。
頃は安永二年の秋。(1772年)
御三家紀州藩籍の船が暴風雨にて米津浜にて難破し、船員の救助・積荷の回収を
村民が行いました。ところがその際生じた積荷不足の責を村民に押し付けるという暴挙を、船役人たちは行い、恩を仇で返す形と相成ったのです。犯人を出さなければ、村人の男衆をすべて召し取るというお達しに、当時村のリーダー的存在であった6人が罪を被り、江戸小塚刑場にて刑に服し、村の危機を救ったということです。
その後、公けには”盗人”として扱われたため、その供養が行われることはありませんでしたが、近年になり、村の救難の義人としてわが町内は、毎年夏の行事として、遺族、町内会、一般町民参加にて供養が行われています。
菩提寺は安泉寺で、六義人を祀った祠が有ります。

墓地には「江戸送り六義人」を讃える詩を刻んだ石碑が建っています。

安泉近く、国道一号線からほど近いところに 由来を記した石碑が有ります。

「今で言ったら自分たち、自治会役員が罪被るんだろうねぇ」
参列した、自治会役員の中で誰となくこんなセリフが出てきましたがその問い掛けに応える人は無く、
皆が振舞われた饅頭に舌鼓を打つばかりでした。
by:伯
に参加してきました。
頃は安永二年の秋。(1772年)
御三家紀州藩籍の船が暴風雨にて米津浜にて難破し、船員の救助・積荷の回収を
村民が行いました。ところがその際生じた積荷不足の責を村民に押し付けるという暴挙を、船役人たちは行い、恩を仇で返す形と相成ったのです。犯人を出さなければ、村人の男衆をすべて召し取るというお達しに、当時村のリーダー的存在であった6人が罪を被り、江戸小塚刑場にて刑に服し、村の危機を救ったということです。
その後、公けには”盗人”として扱われたため、その供養が行われることはありませんでしたが、近年になり、村の救難の義人としてわが町内は、毎年夏の行事として、遺族、町内会、一般町民参加にて供養が行われています。
菩提寺は安泉寺で、六義人を祀った祠が有ります。
墓地には「江戸送り六義人」を讃える詩を刻んだ石碑が建っています。
安泉近く、国道一号線からほど近いところに 由来を記した石碑が有ります。
「今で言ったら自分たち、自治会役員が罪被るんだろうねぇ」
参列した、自治会役員の中で誰となくこんなセリフが出てきましたがその問い掛けに応える人は無く、
皆が振舞われた饅頭に舌鼓を打つばかりでした。
by:伯